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修道誓願について③ 貞潔

貞潔
                 
 「司祭はどうして結婚できないのですか」と、たびたび質問されます。その時には決まって、「結婚できないのではなくて、結婚しないことを選んだのです」と、答えることにしています。このような考え方は、多少なりとも説明を付け加えなければ、司祭職に固有な独身制と修道生活における貞潔の誓願について、誤解とある種の曖昧さを引き起こすかもしれません。しかし、まずこう答えるのも、貞潔の誓願に生きることを積極的なものとして捉えたいし、実際にそう生きたいと思うからです。 

 司牧という使徒職において理想的なのは、その働き自体がキリストを伝える生きた具体的な行為として受け取られることです。様々な働きにおいて、あるいはそれを通して、目に見えないものを目に見えるものとして具体化することが求められているからです。実際に、多くの人々は、目に見えないものを目に見えるもの、生きたもの、具体的なもの、感得できるものとして触れたいと望んでいます。現代では特に、この要求は大きいと思います。そして、このことは、司牧者たちがいつも試みられる点でもあります。まさにこの点こそ、誓願に生きているかどうかが問われるところだからです。

 他の二つの誓願に比べるならば、貞潔はむしろ地味なものでしょう。貞潔の誓願に生きること自体が、人々との関わりを通して、成熟さの内に少しずつ統合されていくものですし、人々との関わりを通してしか、この誓願の持つ価値とその厳然たる要求を理解できないからです。イエスへと魅了されていく過程において、貞潔の誓願は、時には厳しい要求を私たちに提示しながら、その真の価値を発揮します。

 司牧者は、実に様々な人々と関わります。ある場合には、関わりがいつ始まったかということさえ分からないままに関わり続けることもあります。そしてまた、魅力ある司祭であればある程、人々との関わりが必然的に増えていきます。イエスへと魅了されていく過程にある人は、ある種の透明さと健全さで人々を引き寄せますが、時には、これが錯覚を生む危険もあります。その魅力は、「私のゆえに」ではなく「イエスのゆえに」与えられたものです。

 この「イエスのゆえに」ということが肝心な点です。貞潔の誓願は、関わる人々を「すべてはイエスへ」という流れの中に導くことを求めます。司祭の手に委ねられた人々は、最終的にキリストへと導かれるべき人々、あるいは、キリストへと献げられる人々であって、「私のゆえに」集められた人々ではありません。貞潔の誓願の持つ素晴らしい働きの一つは、ここにあります。もし貞潔の誓願が、握ることから手放すことへ、引き寄せることから委ねることへと私たちを促すとすれば、修道生活そのものが、「すべてはイエスへ」という流れの中に自分を沈めるよう、絶えず私たちに要求するでしょう。

 修道生活の本質的な部分でもある貞潔の誓願は、使徒的かつ積極的なものです。この誓願に生き続ける限り、あるいはイグナチオ的に表現された「自己を献げる祈り」に生き続ける限り、その司祭の言葉、行いの一つ一つはより一層イエスの色を帯びたものとなっていくはずです。

聖イグナチオの「自己を献げる祈り」(霊操234番)
主よ、わたしの自由をあなたに献げます。
わたしの記憶、知恵、意思をみな受け入れてください。
わたしのものはすべて、あなたからのものです。
今、すべてをあなたに献げ、み旨に委ねます。
わたしに、あなたの愛と恵みを与えてください。
わたしはそれだけで満たされます。
それ以上、何も望みません。


『イエズス会会憲』より
(547)貞潔の誓願に関しては説明を要しない。心と体の清さにおいて天使的な純潔に倣おうと努め、この誓願を完全に守るべきは明らかである。
(288)試練期にある者が神の聖なる望みと一致して、すべてのことがらのうちに神を探し求め、できる限り被造物への愛から離れ、自己の愛を万物の創造主に向け、すべてのものごとのうちに神を、神のうちにすべてのものを愛するよう、長上はしばしば勧めることが必要である。

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修道誓願について② 従順

従順
             
 修道者の従順はよく誤解されます。修道者は「従順」をとくに重視すると思われており、修道者についてのそのイメージは正しいのですが、その従順は、軍人あるいはロボットがするような従順ではありません。

 理由は簡単です。修道者の従順の唯一の目的は、神様のみ旨を発見し、またそれを忠実に実現することです。しかし、神様の望みは人――すべての人――が幸せに生きることであり、良いもの、美しいもの、正しいもの、命あるものが存在することです。神様の夢はあらゆる存在の間に‐人々と国々と大自然等に和解と平和と喜びがあることです。イエズス会員はその神様の望みと夢に捕らわれて、それに自分すべてを賭けて生きようと切に望んでいるものです。「従順」は神様の協力者として働けるように、神様のみ旨を求め実践する一つの道なのです。

 神様の大きな世界と計画に自分を賭けることによって、自分の狭さと利己主義と視野の限界を乗り越えて、今まで体験しなかった心の自由と生きがいを味わうことができるようになります。真の意味で、「従順」の位置は自由の道です。これはとくに現代において大事なことだと思われます。消費社会の一つの現象として、一人ひとりの自由は外面的に大事にされているように見えますが、実際には周囲の人々からの圧力、新しく作られた人工的なニーズ、時代のムード等によって、その自由が小さくなってしまっているような気がします。

 イエズス会の創立者聖イグナチオは従順の精神と実践を徹底的に分析しました。彼は人間の弱さと軍隊的な従順の限界と間違いをよく知っていました。人間はいくら聖人のように生きようと思っても、自分のわがままから完全に解放されることはありません。これは長上にも無論当てはまります。人間には好き嫌いがあり、考えたり行動したりするときには自分の習慣に従っています。知らず知らずに自分の決定に、神様のみ旨と関係のない要素が忍びこんできます。ですから修道者にとって最も大切なのは、どうすれば神様の心を見いだせるかということなのです。

 「従順」についての創立者の理解では、神様の心を把握するうえで、
①単なる人間的、合理的な計算と考察よりも、離脱と祈りのほうが確実な手段です。
②自分がかかわっている場合には、自分の意見や傾きよりも、他者――とくに長上――の判断を仰ぐ方がよいのです。
③大事な決断をするときに基準となるのは、個人の満足感でも、組織の都合でもなく、福音的精神あるいは使徒的な目的です。
④その決断を長上が一方的に、異なる意見を無視して上から下すのではなく、長上と会員のお互いの尊敬と対話のうちから見いだし発展させていくべきです。
⑤長上と会員のどちらも自分自身と自分の修道会の利益を乗り越えて広く見渡し、現代社会のできごと、人の苦しみと必要と、神の国のしるし(時のしるし)と、教会の呼びかけに応えることを基準にして物事を決めていくべきです。

 このイグナチオ的な「従順」では、長上と神と会員の間にいるのではありません。長上も心から神に従おうとするのです。自分の意見が必ずしも神のみ旨ではないということを、誰よりもよく知っているのです。ですから、み心を求めるときに、広い対話を行います。彼も会員も、神と接触し対話をする必要があるのです。その対話で助けになるのは、「与えられた言葉」です。すなわち聖書と教会の公文書と修道会の精神を表現する文書なのです。そのようにするとき、従順の過程に過去の知恵も、現代の新しさも、人の心の動きも、それからとくに神様の霊の指導もはいってきます。

 従順は徳の一つではありません。従順は神を求めてそのみ旨を悟り、み国のために実践しようとする生き方です。「神の国とその正義を求めれば、他のすべてのことは与えられるであろう」という福音の言葉を信じて、共同体と共に、また長上とともに、神様が喜ばれることだけをしようとする道なのです。


『イエズス会会憲』より
(284)すべての会員が、長上を、たとえそれがだれであっても、主キリストの代りをしている者として認め、愛と尊敬の念を抱き、全き従順を示すよう努めることは、進歩としてゆくためにきわめて有益であり、また必要なことである。
(547)すべての会員は従順を守り、それに秀でようとする心構えも持っていなければならない。すなわち、義務付けられたことだけではなく、その他、たとえ明らかな命令ではなく、長上の意思表示に過ぎない場合であっても、創造主である神を目のまえにし、神のために従順を実践し、怖れに乱された心ではなく、愛の精神をもって行動するよう努めていなければならない。

修道誓願について① 清貧

清貧

 カトリック教会ではイエズス会に限らず、すべての修道者は神の前で「清貧」の誓願を公に立てることになっています。イエズス会にとって、この誓願は特別な意味を持っています。聖イグナチオは、イエズス会自身は貧しくありながら、なおかつ貧しい人たちに最高の奉仕をすることがどうしたらできるのかを、いつも真剣に追求していました。特別なカリスマとも言えるこのイグナチオの望みは、霊操の中にも強く現れています。そこで描かれる理想は、自由な心で貧しいキリストに従うことであって、イエス・キリストの一生を表すナザレでの宣教宣言を実現することなのです。(ルカ4:18)

 イグナチオの時代から、この理想はイエズス会に緊張をもたらしました。1537年、最初の9人の同志たちとともにローマに到着したイグナチオは、新しい修道会の設立を検討し始めました。当時、夏の大凶作につき落とされた多くの人たちが、周辺の農村からローマにやってきて、住み家と助けを求めていました。イグナチオとその仲間は、昼間はパンや野菜、薪を乞い歩き、夜には家のない人々を集めて借りた家に宿泊させました。しばらくして、世話をしていた人たちの数は三千人にも上ったようです。

 今日の日本社会の中では貧しい人たちが見えないぐらい、社会の周辺へ追放されています。日本は物質的に成功しているように見え、これからもその豊かさを支えるために、様々な手段を使っていきます。そのひとつは教育制度です。イエズス会日本管区は昔からレベルの高い教育施設をつくり、教会司牧にも力を注いできました。その結果、イエズス会員の視野にいつも貧しい人が入っていたかというと、必ずしもそうではありませんでした。社会で高い評価を受けているのは、成功した人たちであって、失敗し困っている人たちではないのです。

 せっかく、清貧の誓願を立てても証がなければ、その内容は誰にも伝わらず信用もされないでしょう。世界の方々に散らばっているイエズス会員たちは、この誓願の意味とその近代化を強く求めてきました。日本が物質的にますます豊かになっている反面、貧しい人たちの数は増える一方であり、その状況はまったく良くなりません。貧しい人たちはいつも弱く、あらゆる不正と抑圧に苦しめられています。そして現代、その不平と圧力が制度的なものに変わってきています。イエズス会はキリストの模範を前にして、福音の原点に戻り、教会の望みや世界中で困っている人たちの声に耳を傾けようとしています。
 
 その結果、正義を促進するために優先的に働くことを決心しました。イエズス会員全員が直接、貧しい人たちの世話をする必要はないとしても、貧富の格差、不正の前で手をこまねいているだけではいられません。日本の中でも今日、貧しい人たちと何も接触しないで生活を送ることが問われ始めており、イエズス会が行っているあらゆる事業が、本当に日本社会の中で正義を促進しているのかが厳しく問われています。
 
 イエズス会の清貧は、使徒職的な特徴であり、豊かさに埋没する社会の中に緊張感をもたらす、大きなチャレンジとなっています。


『イエズス会会憲』より
(254)聖なる清貧の徳の試しを経験し始めるため、自己のいかなるものを自己のものとして使用することがないように教えなければならない。
(287)すべての者は清貧を母のように愛し、機会が与えられたときは聖なる分別が示すところに従って、その結果の一端を味わうことが必要である。
(553)会員は修道生活の堅固な防壁として清貧を愛し、神の恵みによって可能な限り、それを純粋な形で守らなければならない。

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